推しの現場に堂々立つ

ふさわしくないならなればいい

自分の人生を主体的に選択しよう、と思った話

こんにちは。

下書きにばかり覚書が溜まって、気づけば1か月が経っていました。

今のわたしが考えていることを備忘録的に残しておきたくて、

とても個人的な話を書いておきます。

 

ここ最近、母の影響で「ポリタスTV」という番組を時々見ています。

ジャーナリストの津田大介さんが様々な分野のゲストを呼んで討論のようなことをする番組。YouTubeで配信されていて、無料部分と会員限定の有料部分があります。

そのなかで、よく「女性の権利」とか「政治に対する目線」とか「人権」に対することとかが論議されるんです。

わたしは、かの上野千鶴子さんの入学式式辞を記事で読んで、

「ああ、わたしはあのとき傷ついていたんだ」

と気がついたクチの人間です。

あのときは笑ってごまかして、悪口みたいに強がって気にしないふりをしていたけど、

”気にしたらいけない”、”おかしいと思ってはいけない”なんて思い込んでいたけど、

やっぱりあれは馬鹿にされてた…というより、正されなくてはいけないことだったんだと初めて気づかされました。

あの式辞を読んで、初めて涙が出て、自分が傷ついていたことをようやく知りました。

 

そんななかで同じ世代の方々が人権のために声を上げて闘うのを見て、

わたしが知らないでいたことを論ずる姿を見て、

わたしがいかに鈍感に生きているかを知りました。

 

そして、短い人生、自分も自分が生きている『世界』のことを

もっと自分から知っていこうとしなくてはいけない、と感じました。

世界は社会と言ってもいいかもしれません。

同じ日本で生きている人が、どんな境遇に曝されているのか。

同じ立場にいる人が、世界ではどんなふうに生きているのか。

このパンデミックの中で、インターネットが発達しているからこそ手に入る情報もあります。

どうしてこんな違いが生まれるんだろうと考える材料はあちこちに転がっています。

知ろうとすれば、どんな情報にも手が届きそうな世の中です。

だからこそ”自分から”・”能動的に”動かないと、何もかも見過ごしてしまう世界です。

知ろう知ろうとしなくては過ぎ去ってしまうものを、少しでも手繰り寄せようとする姿勢・意識が必要だと思います。

 

こんなことを言って何を成し遂げたのかと言われればまだ全くですが、

少なくともそう思うことはできました。

自分がそれをできていないと感じることができました。

わかったつもりでいるより、わからないことに自覚的で在りたい。

そして自分の知らないことをまっさらに受け入れて考えられる人間で在りたい。

そのうえで自分なりの意見を組み上げることができたら、それは何よりなことだと思います。

 

身体的には女性として生まれ、大まかな自認も女ですが、

男になりたい/男であるほうが自然だと思うこともあります。

生涯をかけて仕事で成功したいと思うときもあれば、ゆっくり家にいて優雅に過ごしたいと思うときもあります。

ぶれることは悪ではなく、変われるのは人間らしさの一部なのかもしれません。

 

…なんてポエミーなことを書いてしまいましたが、

要は自分が自分の人生を生きていることに主体的であり、

責任をもって選択していきたいなと思ったっていうことです。

 

この先、もちろんこのブログはわたしの変わろうとする記録になればと思いますが、

こうした話も覚え書きに書き留めていけたらなとも考えています。

 

これからもどうぞよろしくお願いします。